冷笑は賢さではないぞ

視野が狭いのだろう、テレビで見る虐待はとても特異なものに見えてこの世界のその他の親はみな優しくある程度齟齬がありながら死ぬこともなく過ごしていると思っていたのだが、結構最近にその視野の狭さに気がつかされたことがあった。あまり個人情報っぽいことを書きたくないが、父親から性的虐待を受け、母親体殺されかけてかつ妹と弟たちを守りながら生きているというような女の子だ。もうすぐ19歳になるらしい。警察にいこうにも、一家の大黒柱が父親なので捕まるとそれはそれで困るし、逃げようにも妹まで父親の毒牙にかかるとつらいから父親に喜んで抱かれているふりをして命をつないでいると言う女の子で、警察にいこうにも家庭環境をどうもしてくれなかったし行ったけどどうにもならなかったと言っていた。

その子とはもう交友がないが、あの話すていると感じている相手も自分も警察も範囲にはいっている無力感はなんなんだろうか。

わたしはどうしたらよかったんだろうかと思っている。法律の知識や財力があれば何か役に立てただろうか? あの女の子を法テラスに連れていきたかったが結局できなかった。

こういうのをメサコンと呼ぶらしいのだがなんかそういう言い方嫌いだし、実際心配しているわたしをメサコン笑と笑ってきた人間がいて不愉快だったな。誰かを救おうという傲慢さもどうでもいいし人間を苦しめることにわたし自身さして抵抗はないと言ったことを言った上でわたしはあの子にもう少しよい(これはわたしの独断である)暮らしをして欲しかった。傲慢だというのならそういえばいいが、別にわたしは自己肯定感が希薄なわけでもその子の神様になりたいわけではない。まずひとの善性を嘲るところも不愉快だし、人を助けたいと思うことをメサコンという巨大な言葉で形容して極端な例だったり特徴的な例だったりするものへの侮蔑をその言葉に当てはまるとされた対象すべてにぶつけるのは単純に愚かだろう!!! メンヘラという言葉も同じ理由で嫌いだ。私はそう自認してないし最近特に定義もせずみんながそう呼んでるからということで今の私のギャルっぷりを知りもせず気安く私をそう呼称した考えなしの無知にメンヘラ メンヘラとなまぬるい侮蔑を喰らわされてなんなんだあいつは!!!!!!!!!! ああダメだ腹が立ってきた

人を助けたいと思うことと救いたいと思うことを分ければいい。環境によって救われるものもあり足長おじさんバリに金さえあれば絶望から助けられる子だってこの世には腐るほどいる。幸せにしてやろうと思うのではなく幸せになってくれたぶんこれが必要だと思うからあげるねってやることを馬鹿だと嘲りたくないし今思い出しても腹立ってきた。むかむか。

それはそれとしてどうかあの子は幸せになってほしい。もしかしたら自殺してしまうかもしれない。わたしは何もしてあげられなかったし彼女にとって世界の全ては助けてくれないものだった。願う権利なんてないのかもしれないがまあ権利がないからと言って何かをやめるつもりはないし素朴に祈ろう。いつかマンションでもプレゼントしてあげたいな。わたしは頑張るつもりだ。

嫌ってもいいんだ現象について

なんとなく反感を抱いていた人間を自分より激しく嫌っているひとと悪口をいうことによって相手を嫌いになるという現象を、特に考えもなく自分の楽しさのために他人に悪口を吹き込むことによって発生させてしまったことがあった。やっちまったなあと思うと同時に、わたしは他の人が嫌っているからと言ってあまり憎まず憎悪せずいきたいと思った。しかし嫌うに妥当な理由があった場合その感情は自由であって、視点を変えてみると怒りに明確な根拠が生まれそれが客観視しても妥当であると他者の意見を通して気がつけたから嫌ったということでもあるのかもしれないし、実際同じような別の件で心当たりがあるため、そういう時は別にいいんじゃないのと思う。相手に悪意があるかないかもこの際には妥当な判断材料にはならない。嫌いたいものを自分が傷つかない範囲で適当にきらえばええんちゃうのかなあ、と思いました。

恋の話

本当にすごいので三年前ストーカーしてた人にまだ未練があるっぽい

そして今の恋がかなり不毛なのでいい加減やになったからあの人にモーションかけてみっかと思うようになった。にしても美女多かったなあの学年。かっこいい人もおおかった。同窓会がやりたい。しかし今考えてみると魅力的に見えたのは自分の劣等感からかもしれない。わたしはいつも自分が尊敬している人間に対して恋心を抱きやすいという癖があるし、中学校時代のわたしはひどかったし。劣等感と憧れから自分をいじめてきた人間たちを美しくかっこよいものに見ていたのかもしれない。こういうのをストックホルム症候群というんだ!! 実際、今自信と人生経験によりだいぶ美しくなったわたしを見てえへへとフレンドリーな笑いを大学生らしく見せていたら恋が覚めてしまう自覚がある。彼らは自分がスクールカーストかなんかの頂点だと誇りながらある程度そのコミュニケーションを冷笑的に見ていた気がしてとてもカッコよかった。こういうのを偶像視と言うのかもしれない。恋愛相手にはある程度支配的な関係性を求め高圧的な態度で挑むくせに好みがやや服従的なところがあるな。

恋における陶酔の効能について

わたし恋してる!という時、その相手との関係は様々です。悲恋によって燃え上がる恋とかあります。めちゃくちゃ楽しいのでいいんじゃないでしょうかと思うんですが恋ってやっぱり少し偶像視なので……冷めない偶像視が愛なのかしらんと思っています。まあ感じたことないので知りません。愛を信じていると言って侮蔑されたことがあるので愛だのいうのは嫌になりました。信じたことなどないですが信じる人を馬鹿にするつもりもないです。

恋って少なくともわたしにとってとても楽しくてとっても刺激的ですっごく有益な幻想だから全力で楽しむといいですよと思うんですが、自分が楽しめる範囲でするといいよね!と思いました。これは自戒です

精神が滅びている

嫌な記憶!嫌な出来事!嫌な記憶!嫌な人間!怒涛押し寄せる嫌悪感!世はまさに大嫌悪時代という感じの1日だった。もう言語を矯正する余裕さえない全部もうダメだ助けてくれ

自分の信仰によって自分が不幸になる日を決めているからこそそうでない日をポジティブに生きられるみたいなところがあるがそれによると今日は不幸になるひなので遺憾無く不幸になっている いいんだかわるいんだかというかんじだ

信仰のいいところは自らの信仰によって幸福や不幸を解釈によって支配できるところだなあ。言ってる場合ではないくらい精神がダメだが。もう特定のSNSへの嫌悪感がすごい。もちろん個々の事例による紐付けですが……トラウマというやつですが……滅亡すればいいあんな世界……。そしてその界隈で使われているクソみたいなインターネットスラングを内面化してしまっているという事実がこの文章を描くたびに押し寄せてきて本当にますます辛いからわたしは文豪の本などを早いところ読んで出力して幸せになるしかないんだよな。今年の目標は素の文体のインターネット成分の撲滅です。絶対に成功させてやるからな!!!!!

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